2015年11月16日月曜日

私小説という仮面舞踏会   田中 久元(田中屋店主)

 太宰治は恥ずかしい。
  特に文学好きということでもないけれども、ほぼ同郷という縁で太宰作品は一応読んだ。ただあれは青春文学という感をぬぐえない。若さとは恥ずかしさだと思う。居ても立っても居られないようなコンプレックスとそれに抗う自尊心がスパイラル状に絞り上げるような思春期の葛藤なくしては生まれえない作品群ではなかったのか。
「選ばれてあることの恍惚と不安の二つ我にあり」ヴェルレーヌの言葉というより太宰の記念碑に刻まれた言葉として有名である。貧富の差が甚だしかった時代に貴族院議員の名家に生まれ、しかし、自分はそれに値する存在なのか、自分は何者なのだろうという、まさに青春の葛藤をそのまま持ち続けていた人ではなかったのか。 

十八の時、上京して世田谷の予備校の寮に入ったことがあった。そこで名古屋出身で柴田勝家の子孫だというMと友達になった。戦国時代の話で盛り上がったのが切っ掛けだった。
「田中って津軽出身で色白で上品で、太宰治を思い出す」とMに言われて二の句が継げなかったことがあった。色は白いが別段細面でも端正な顔立ちでもない。上品かどうかは意見の分かれるところだが、シャイで引っ込み思案な少年ではあった。比べられて嬉しかったから今でもその言葉を覚えているのだろうけれど、それに近い量の恥ずかしいという感情を持った。
 
六十の声をそろそろ聞くようになってから、同人誌の友人に感化されて、初めて短編小説のようなものを書いた。これまで同人誌に所属しながら実話やエッセイ的な雑文しか書いたことは無かった。
中央の出版物には決して載らない、しかし書き残しておかなければ忘れ去られてしまう人や出来事。いやそれは私にとっては決して些事ではないこと、それを書くのが自分の役割だと思っていた。そして小説は読まない、創作はしないと公言していたので明らかな前言訂正である。
子供が骨折した一日の出来事を、いやそのときの私の心の揺れを書いたので、実際に起こったことを小説仕立てにしただけなのだが、意外なことに筆が進んだ。小さな合評会で友人に「いつもよりのびのび書けてる」と言われた。ちなみにこの原稿は北奥氣圏第十一號に掲載されることになった。
登場人物に仮名を付けて小説という額縁に収める。小説という額縁いやジャンルは大概のものは収まるくらい幅広い。納めてしまえば約束事で、これはフィクションであり絵空事なのだ。仮面舞踏会や覆面座談会のような自由さがあるのに気が付いた。
私小説という日本伝統のジャンルも作家たちはフィクションという約束事に解放された振りをしながら、自分の内奥を眼をそらさずに見つめて来たのではないか。そして太宰治はその系譜の中の最高峰であった。
 太宰治はもうほとんど読まないが、もし今『人間失格』を読んだなら三日寝込む自信はある。