2015年8月18日火曜日

偉い小説家   秋元 弦(元中学校教員)

 第二大成小学校は古い鉄筋コンクリート造りの三階建ての建物で、三階に上がると「角は」デパートのアドバルーンがすぐ近くに見える。六年一組の窓からは、桜の大木の梢越しに南西に広がる町並みが見渡せた。
 窓は小さなガラスを鉄の枠にパテで固定するスタイルで、このあいだ掃除の時間に割ったところだけ、白いパテが生乾きで石油のにおいがした。毎日誰かが触るので、パテは指紋だらけになっていた。
 教室の後ろのほうで、いつもはおとなしいチカコが、今日はずいぶん意地になってゴン太と言い争っている。どうせまたゴン太が気を引こうとして、ちょっかいを出したからだろう。チカコの長いお下げ髪を後ろから引っ張ったり、珍しい歯列矯正の装置などをからかって泣かせたりするのは、結局そうなんだ。
 ゴン太は毎日夕食に鶏のもも肉が一本つくと自慢していた。あのパワーと体格はきっとそのせいだ。
「な、ゲン知ってる?」
ゴン太がゲンに話しかけた。
「ツシマって小説家。知らねえよな。チカコの家の二階に下宿してたって」
チカコが一瞬期待するような視線をゲンに向けた。家も近所で事情を知ってそうだし、何でも知ってるようなふりをするゲンなので、なにか援護してくれるかと期待したらしい。しかしそのときゲンは素直に首を横に振った。知らなかったからである。
「ほら、ゲンも知らないって」
チカコは一種がっかりした表情を見せたが、気を取り直して反論を続けた。
「ホントなんだから。ツシマっていうのは本名だけど、違う名前で有名な人なんだから」
「そんな有名な小説家の先生、こした田舎さいるわけねえべ。話つくってるんでね」
ゴン太の説によると小説家っていうのは東京のほうの人がなるものだというのである。
「だからここで学校を卒業して、そのあと東京に行って大学に入って、そして小説家になったんだって。ホントなんだから」
チカコはひるまずに反論を続ける。
「じゃあ、そしたに有名な小説家だばよ、賞とか取ってるんだべ」
「あ、ごっちゃんなら知ってるかも」
ゴン太はごっちゃんを見つけて大きな声で聞いた。
「なんて言ったっけ、ほら小説の賞」
ごっちゃんは自席で眺めていた英語のテキストを閉じて話の輪に加わった。
「芥川賞とか直木賞のこと?」
「あ、それそれ」
ゴン太はチカコの方に向き直って言った。
「なあ、そんな有名な偉い小説家の先生なら、そういう賞とってるのかって」
チカコは困ったような顔をした。
ごっちゃんが口を挟んだ。話の中身はだいたい聞こえていたようだった。
「あの人はたしか貰ってないはず。ホントは芥川賞ほしくて、選考委員の川端康成に手紙を書いたんだけどだめだったはずだよ」
川端康成という名前はゲンも知っていた。ついこのあいだノーベル賞という偉い賞を貰ったとテレビはその話題でもちきりだった。ヨーロッパの何とかという都市での授賞式で、一人羽織袴姿で堂々と振る舞う姿は小学生にも誇らしかった。あのテレビに出ていたやせた白髪の人が選考委員やっていたのか。じゃあツシマって人も昔の人か。
 それにしてもごっちゃんはなんでも知ってる。どうしてそんな大人の作家のことまで知っているんだろう。ゲンはそういうごっちゃんをたいしたものだと思った。だいたい、塾で英語を習っているのは、学校でもごっちゃんくらいだろう。
 ゲンはすっかりごっちゃんの博識に驚いてしまっていたが、ゴン太はチカコに向かい続けた。
「ほら、やっぱり貰ってないんだ」
チカコは繰り返した。
「ほんとに偉い先生なんだから」
チカコは涙目になって続けた。
 「ウチのお父さん、その先生に写真とって貰ったって」
「写真撮るのと小説は関係ない」
ゴン太が言った。
チカコはいよいよ泣きそうになった。
ゴン太が聞いた。
「何っていったっけ、そのツシマさんの何、ペンネームっていうの?」
「ダザイオサム」
小さな声でチカコが言った。
「知らね」
ゴン太が言った。チカコは泣き出した。
 ごっちゃんが知ってるから、有名な小説家だろうに。まあ、ゴン太のねらいはいつもと同じなんだけど。