2015年12月19日土曜日

古き家への郷愁   長利 冬道(弘前ペンクラブ会員)

 最近、御幸町方面に用事で行く時に、ふらっと「太宰治まなびの家」に立ち寄ることがある。大正時代に建てられた「旧藤田家住宅」の引き戸を開け中に入ると、昔の私の家を思い出すからである。今は写真でしか残っていない家ではあるが、この建物に入ると不思議なことに心が落ち着くのである。私の昔の家にも土間があり、太い柱、太い梁があり、二階に上る簡素な階段があったと記憶している。それ故、まなびの家に入ると、それらが思い出されて郷愁に浸ることができるからだ。
 また、まなびの家で行われる数々の行事にも参加させてもらっている。例えば、朗読会、講演会、落語などである。これらの催し物もまなびの家で行われることにより、魅力を増し引き立つことと思う。
 先日、行われた朗読会の様子を「詩」の形にまとめてみたので、それを読んでいただけたら幸いと思う。

修治の言霊

太宰まなびの家にて
太宰治の小説を朗読
最高のシチュエーションだ
修治が舞い降りてきたように
座敷に「津軽」の言霊が響き渡る
標準語のなかに
時折混じる津軽弁が
心地よく聞こえる
太い梁と障子
大黒柱と襖
高い天井
古い日本間の様式が
趣を高めている
朗読が終わると
惜しみない拍手が
会場に沸きあがる
そして
人が去り
またいつもの静寂が
戻ってきた

2015年11月16日月曜日

私小説という仮面舞踏会   田中 久元(田中屋店主)

 太宰治は恥ずかしい。
  特に文学好きということでもないけれども、ほぼ同郷という縁で太宰作品は一応読んだ。ただあれは青春文学という感をぬぐえない。若さとは恥ずかしさだと思う。居ても立っても居られないようなコンプレックスとそれに抗う自尊心がスパイラル状に絞り上げるような思春期の葛藤なくしては生まれえない作品群ではなかったのか。
「選ばれてあることの恍惚と不安の二つ我にあり」ヴェルレーヌの言葉というより太宰の記念碑に刻まれた言葉として有名である。貧富の差が甚だしかった時代に貴族院議員の名家に生まれ、しかし、自分はそれに値する存在なのか、自分は何者なのだろうという、まさに青春の葛藤をそのまま持ち続けていた人ではなかったのか。 

十八の時、上京して世田谷の予備校の寮に入ったことがあった。そこで名古屋出身で柴田勝家の子孫だというMと友達になった。戦国時代の話で盛り上がったのが切っ掛けだった。
「田中って津軽出身で色白で上品で、太宰治を思い出す」とMに言われて二の句が継げなかったことがあった。色は白いが別段細面でも端正な顔立ちでもない。上品かどうかは意見の分かれるところだが、シャイで引っ込み思案な少年ではあった。比べられて嬉しかったから今でもその言葉を覚えているのだろうけれど、それに近い量の恥ずかしいという感情を持った。
 
六十の声をそろそろ聞くようになってから、同人誌の友人に感化されて、初めて短編小説のようなものを書いた。これまで同人誌に所属しながら実話やエッセイ的な雑文しか書いたことは無かった。
中央の出版物には決して載らない、しかし書き残しておかなければ忘れ去られてしまう人や出来事。いやそれは私にとっては決して些事ではないこと、それを書くのが自分の役割だと思っていた。そして小説は読まない、創作はしないと公言していたので明らかな前言訂正である。
子供が骨折した一日の出来事を、いやそのときの私の心の揺れを書いたので、実際に起こったことを小説仕立てにしただけなのだが、意外なことに筆が進んだ。小さな合評会で友人に「いつもよりのびのび書けてる」と言われた。ちなみにこの原稿は北奥氣圏第十一號に掲載されることになった。
登場人物に仮名を付けて小説という額縁に収める。小説という額縁いやジャンルは大概のものは収まるくらい幅広い。納めてしまえば約束事で、これはフィクションであり絵空事なのだ。仮面舞踏会や覆面座談会のような自由さがあるのに気が付いた。
私小説という日本伝統のジャンルも作家たちはフィクションという約束事に解放された振りをしながら、自分の内奥を眼をそらさずに見つめて来たのではないか。そして太宰治はその系譜の中の最高峰であった。
 太宰治はもうほとんど読まないが、もし今『人間失格』を読んだなら三日寝込む自信はある。 

2015年10月20日火曜日

太宰治こと津島修治様   澤口 淑子(弘前文学学校生徒) 

  私は、久方ぶりで隣町の小学校を訪ねた。ほぼ半世紀前に、長男、次男の学んだ小学校である。当時小学校の校門の脇に二メートル程の石碑が立ち、そこには「素直ないい子」と彫られてあった。
 ある時、石碑について説明があり、太宰治の「人間失格」の最後尾「葉ちゃんは、とても素直で……神様みたいないい子でした」と閉め括られた小説から選んだものだという。
 太宰治の信奉者が寄贈したものだと聞いた。後には、かの石碑について「教育の場に人間失格とか、情死作家の心情を掲げるとは……」と異論が唱えられたと記憶している。「素直ないい子」はどうなっているのだろう。期待と不安が頭をよぎる。
 校舎は新築され、ちんまりとコンクリート造りに変わっていた。広かった校庭は半分に削られ、うっそうとした樹々に覆われた公園になり、町の避難場所と標されていた。
 年月の差を痛感する。正面玄関の大窓には人文字で「えがおであいさつ」「思いやりのある笑顔でやさしい○○小学校の子」と赤文字で大書されている。現実に引き戻された我が身は、太宰さんは何処へ? と一抹の寂しさを抱えて帰宅した。
 人間失格の〝はしがき〟に、問わず語りしている……、十歳前後の写真を醜く笑っていると書き記し、太宰の多くの写真は、この世の責め苦を一人で背負っているかの風貌で、人々の瞼に張りついていると思う。
 今では、津島修治と問われても太宰治と一致しない人が多いと聞く。太宰、だざい、ダザイで通じるのだ。毎日のように、新聞、雑誌のコラム等でお目に掛る。何故こうも人気があるのか? 裕福な家庭に育った修治さんは、感謝を言葉に現したことがあるのか?
 私の手元にある(河出書房)太宰治集に十五編収められ、作品の多さに驚く。
 監修に谷崎潤一郎、武者小路実篤、志賀直哉、川端康成氏の名がある。大作家なる先生方は、太宰か、津島さんいずれを希望の星と認めたのだろうか。批評家でもない、まして人の生き方に口を出すべき我が身ではない。しかし人は全て、成したことに代価を払わなければならぬのも、当然だとおもう。小説を書くということは、人間を書く、命の輝きを書くと弘前文学学校で講義を受けた。太宰の作品は、津島修治の心の泉から湧き出た雫であり宝である。
 津島修治さんへ漱石先生の「それから」の終章を贈りたい。愚図な代助へ兄の一喝……「お前は平生からよく分からない男だった。世の中に分からない人間ほど危険なものはない。何をするんだか――安心ができない。お父さんや俺の社会的地位、お前だって家族の名誉という観念は持っているだろう」
 あくまで作品が大元なのであって、どんな形で姿を現すか作家の文学的手腕だと思う。

2015年8月18日火曜日

偉い小説家   秋元 弦(元中学校教員)

 第二大成小学校は古い鉄筋コンクリート造りの三階建ての建物で、三階に上がると「角は」デパートのアドバルーンがすぐ近くに見える。六年一組の窓からは、桜の大木の梢越しに南西に広がる町並みが見渡せた。
 窓は小さなガラスを鉄の枠にパテで固定するスタイルで、このあいだ掃除の時間に割ったところだけ、白いパテが生乾きで石油のにおいがした。毎日誰かが触るので、パテは指紋だらけになっていた。
 教室の後ろのほうで、いつもはおとなしいチカコが、今日はずいぶん意地になってゴン太と言い争っている。どうせまたゴン太が気を引こうとして、ちょっかいを出したからだろう。チカコの長いお下げ髪を後ろから引っ張ったり、珍しい歯列矯正の装置などをからかって泣かせたりするのは、結局そうなんだ。
 ゴン太は毎日夕食に鶏のもも肉が一本つくと自慢していた。あのパワーと体格はきっとそのせいだ。
「な、ゲン知ってる?」
ゴン太がゲンに話しかけた。
「ツシマって小説家。知らねえよな。チカコの家の二階に下宿してたって」
チカコが一瞬期待するような視線をゲンに向けた。家も近所で事情を知ってそうだし、何でも知ってるようなふりをするゲンなので、なにか援護してくれるかと期待したらしい。しかしそのときゲンは素直に首を横に振った。知らなかったからである。
「ほら、ゲンも知らないって」
チカコは一種がっかりした表情を見せたが、気を取り直して反論を続けた。
「ホントなんだから。ツシマっていうのは本名だけど、違う名前で有名な人なんだから」
「そんな有名な小説家の先生、こした田舎さいるわけねえべ。話つくってるんでね」
ゴン太の説によると小説家っていうのは東京のほうの人がなるものだというのである。
「だからここで学校を卒業して、そのあと東京に行って大学に入って、そして小説家になったんだって。ホントなんだから」
チカコはひるまずに反論を続ける。
「じゃあ、そしたに有名な小説家だばよ、賞とか取ってるんだべ」
「あ、ごっちゃんなら知ってるかも」
ゴン太はごっちゃんを見つけて大きな声で聞いた。
「なんて言ったっけ、ほら小説の賞」
ごっちゃんは自席で眺めていた英語のテキストを閉じて話の輪に加わった。
「芥川賞とか直木賞のこと?」
「あ、それそれ」
ゴン太はチカコの方に向き直って言った。
「なあ、そんな有名な偉い小説家の先生なら、そういう賞とってるのかって」
チカコは困ったような顔をした。
ごっちゃんが口を挟んだ。話の中身はだいたい聞こえていたようだった。
「あの人はたしか貰ってないはず。ホントは芥川賞ほしくて、選考委員の川端康成に手紙を書いたんだけどだめだったはずだよ」
川端康成という名前はゲンも知っていた。ついこのあいだノーベル賞という偉い賞を貰ったとテレビはその話題でもちきりだった。ヨーロッパの何とかという都市での授賞式で、一人羽織袴姿で堂々と振る舞う姿は小学生にも誇らしかった。あのテレビに出ていたやせた白髪の人が選考委員やっていたのか。じゃあツシマって人も昔の人か。
 それにしてもごっちゃんはなんでも知ってる。どうしてそんな大人の作家のことまで知っているんだろう。ゲンはそういうごっちゃんをたいしたものだと思った。だいたい、塾で英語を習っているのは、学校でもごっちゃんくらいだろう。
 ゲンはすっかりごっちゃんの博識に驚いてしまっていたが、ゴン太はチカコに向かい続けた。
「ほら、やっぱり貰ってないんだ」
チカコは繰り返した。
「ほんとに偉い先生なんだから」
チカコは涙目になって続けた。
 「ウチのお父さん、その先生に写真とって貰ったって」
「写真撮るのと小説は関係ない」
ゴン太が言った。
チカコはいよいよ泣きそうになった。
ゴン太が聞いた。
「何っていったっけ、そのツシマさんの何、ペンネームっていうの?」
「ダザイオサム」
小さな声でチカコが言った。
「知らね」
ゴン太が言った。チカコは泣き出した。
 ごっちゃんが知ってるから、有名な小説家だろうに。まあ、ゴン太のねらいはいつもと同じなんだけど。

2015年6月24日水曜日

そして「太宰」はどこにいるのか?   自然 先紀(「飾画」同人) 


 太宰治は実はいまだに苦手な作家なのである。
 どこかつかみどころが無く、得体の知れない深井戸を思わせるのだ。
 出身が青森高校かつ弘前大学な私は、ハタからは大先輩をリスペクトして当然のダブル後輩という目で見られがちだが、実際は教科書掲載作品ぐらいしか読めてはいない。そんな私が弘前ペンクラブの事務局として「太宰治まなびの家」の指定管理に携わることとなり、否応なく太宰と関わらざるを得なくなってしまったのも因果な話である。
 
     *
 閑話休題――
 「メロスの全力を検証」という中学生の研究が話題になったことがある。記述を頼りに時速を割り出したところ、明らかに「走っていない、歩いている」というものだった。
 ここから二つのことが導き出せる。一つは発表から何年経っても読者にとって新鮮であり続けていること。もう一つは時間の概念が希薄であることだ。
 「まなびの家」での朗読イベントなどの時しみじみ感じることだが、太宰と読者の距離感は舞台と観客席のそれではなく、同じ部屋・同じ目線に立った時空の共有という一種の「共犯関係」である。部屋を出てから、びっくりするほど短い時間だったり、思った以上に時間が経っていたりという体験は誰しもあると思う。あの感覚だ。
 「まなびの家」は正式には弘前市指定有形文化財「旧藤田家住宅」(大正時代の「中廊下型平面」住宅様式)であるが、音響の良さはイベントのたびいつも驚かされている。二階六畳間の縁側が下宿当時の太宰のお気に入りであったが、隣の八畳間の藤田家長男・本太郎さんとの「語らい」も正にここで活発に行われていたわけである。
 こじつけなのは百も承知だが、太宰の原点の一つをこの「まなびの家」に訪れた方に具体的な体験を通して感じていただければ、この建物が遺されたことの意味や意義もまた新たに生まれ出てくるのではないだろうか。
 語りによって境界線の取り払われた時空が生み出す「騙し絵」的な太宰との一体感・共犯関係は「まなびの家」で過ごした太宰の青春の日々と相似形を為している。
 
     *
 しかし「距離感」の喪失は一方で太宰の輪郭をも不分明なものにしてしまうのだ。
 読者の多くは作品を通して古井戸の水面に映った自分自身の姿を見出してしまう。私の本能がアラームを発するのは自分自身と太宰の混在への気持ち悪さに対してだ。
 『畜犬談』において「ポチ」への心情が変化するように、自分が苦手とするものへの価値観も時空の共有によって時に気まぐれにその立場は入れ替わる。
 
「(略)芸術家は、もともと弱い者の味方だったはずなんだ(略)芸術家にとって、これが出発で、また最高の目的なんだ。こんな単純なこと、僕は忘れていた。僕だけじゃない。みんなが、忘れているんだ」(『畜犬談伊馬鵜平君に与える』より)
 
 実は犬(強者)自体への恐れや嫌悪は温存されていて、変化したのは具体的な「個体」への反応だけなのだが不思議に説得力を持つ。その一方で思いつきの綺麗事を並べたてているだけなのを「家内」の薄い反応を対比することで見透かしてもいるのだ。
 こうした「読み」の中に自分自身の資質まで発見してしまうと、「私」のことはどうでも良いから「太宰」はどこにいってしまったのだという不安がもやもやと広がってしまう。
 太宰治は実はいまだに苦手な作家なのである。

2015年5月18日月曜日

太宰と私   梶野 稔(劇団民藝 俳優) 

  劇団民藝に入団する前に円・演劇研究所に入所し演劇を勉強したのだが、そこでは様々なテキストで演じる勉強をした。
 W・シェークスピア、テネシー・ウィリアムズなどは勿論だが、「三びきのやぎのがらがらどん」という絵本のテキストを4人で演じるというのもあったり多彩だったが、そのテキストの中に「走れメロス」の抜粋があった。
 「メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。」から始まる。
 演劇は戯曲の台詞、ト書きを役者が演じ、舞台美術、照明、音響効果などで劇場空間を作るもので、舞台を活字で表す事は不可能なのだが、この冒頭のシーンを演じたように文字にしてみると…。
 「(舞台奥センターに立ち、大きな声で)メロスはーーーーーーー!!(両腕を大きく振りながら)ぶるんと両腕を大ーきく振ってーーーーーー!雨中、(前方を指を指し)矢の如く走り出たーーー!(と言って走りだす)」と書いて見たが想像出来ただろうか?
 この後には「そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。」と言った後で歌を歌ってみたり「見よ、前方の川を。」の後は濁流になったり一人で「走れメロス」を体現したエチュードだった。
 その時は毎日朝から晩まで夢中で芝居をやっていたので「太宰が同郷だ」などと感慨深く思う余裕はなかった。しかし改めて今考えると同郷の太宰の文学の助けがあり、僕は演劇を勉強し今も役者を続けていられるのだと有り難く感じてならない。(演じるにあたって、改めて全文を読んだ時、外国人の作家の作品のように感じた想い出があるが、それは私だけだろうか?)
 最近も「走れメロス」に似たものを観た。
 それは昨年(2014年)、ゴスペラーズ坂ツアー2014  ゴスペラーズの『ハモれメロス』”だ。
 男性ボーカルグループのゴスペラーズは「ひとり」で大ヒットしブレイクしたが、その前は様々な試みをしていて、同じ早稲田大卒の演劇関係の人達と歌と芝居を織り交ぜたコンサートをやっていて、昨年11年振りにシアトリカル(演劇的の意)ライブツアーを行った。
 あらすじは、工場で働きながら音楽をやっている二人が、プロバンドの楽器をちょっと借りようと練習場所に忍び込み、盗むが捕まってしまう。被害を受けたバンドマンが警察に通報しようとするのだが、二人のうちの一人が「自分の妹が結婚式を長野で挙げる。行きたいから三日間待ってほしい。友達を人質にする。」と言うがお金が無いからバスに乗らず走り出す、というもの。
 走るシーンはルームランナーを使ったり、芝居の合間に歌があったりとても面白い作品だった。
 実は私も「走れメロス」を少し借用した小説をブログに書いた事がある。

 「小説 満州JIHEN」
 http://minotty.exblog.jp/15943637/

 阿久悠が優れた流行歌の条件の一つに「替え歌になるかどうか」というのがあったと記憶している。
 死後半世紀以上経った今でも、熱心なファンがいるのは優れた作品群があるからだが、「走れメロス」のように親しみを持てて誰でもパロディーを作りたくなる懐の大きさが太宰にあるからだろうと思う。(芥川の「蜘蛛の糸」もよく朗読のテキストに使われているがパロディー化された話は聞いた事がない。)
 太宰ゆかりのお菓子があるのも面白い。
 太宰が「生まれて墨ませんべい」を食べたらどんな感想を言うのだろうか?

  「メくてすみません。」とひどく赤面するに違いない。

2015年4月17日金曜日

「太宰治 弘前青春散歩地図」   船木 統紀子(瑠璃同人) 

 私が初めて太宰治と遭遇したのは、小学生高学年の頃。親に連れられ、金木の斜陽館を見学した。いまいち太宰自身に関心が持てないままだったが、斜陽館近くにある雲祥寺へ入った時、思わず「わぁッ」と声をあげたことを覚えている。太宰の子守り・越野タケが、道徳教育のため彼に見せたという十王曼荼羅、いわゆる地獄絵が展示してあった。地獄の責め苦にあう人間たちと、裁きを下す閻魔様。心惹かれた私は、地獄絵の解説プリントを持ち帰り大事に保存していた。勿論、彼への興味ではなかった。
 しばらく彼との距離は縮まらなかったけれども、高校に上がってから、彼への印象が変わる出来事が。所属していた文芸部の企画で、太宰と寺山修司について壇上で発表することになった。寺山担当と決まった私に、太宰の発表担当者が「発表の内容を考えたいので『津軽』を一緒に読んでほしい」と頼んできた。数日かけ、放課後に代わるがわる音読した。『津軽』の最初あたり、股引を買い求めて土手町を歩きまわる太宰の描写が面白く、二人で笑った。 

 平成23年の11月頃だっただろうか、小野印刷所へ入社して1年以上経ったある日。前々からお世話になっていた弘前大学人文学部・山口徹先生から「太宰の地図を作りたいのです」と相談を受けた。弘前市内で太宰に関連する場所を地図にしたい、学生向けのデザインで、手描きのイラストを入れ、暗いイメージを払拭するため明るくさわやかに、というご指示。確かに太宰は自殺した文豪で、暗いイメージが少なからずまとわりついている。一度ためらう。しかし、私の中の“彼”を見つめなおすと、未だに股引を求めて土手町を歩きまわっていた。
 イラストは私の友人・金澤蘭子さんにお願いし、若々しくて笑顔が魅力的な太宰をたくさん描いてもらった。当初は地図の道路なども手描きになる予定だったが、話し合いの末、イラスト以外は私がパソコンでレイアウトをすることに。山口先生のこだわりもあって、『太宰治 弘前青春散歩地図 ―官立弘高時代の街を歩く―』という素敵な地図ができ上がった。ご好意で地図の左下に名前を入れてもらい、気恥ずかしさと嬉しさでいっぱいになった。 

 私が弘前ペンクラブへ入会した際、会長の斎藤三千政先生に「船木さんは、あの太宰地図を作った方ですか」とお声を掛けていただいた。会長が見てくれていたとは! と喜んだが、なんと更なる衝撃が待ちかまえていた。
 ペンクラブ入会後、太宰治まなびの家を訪れた私は仰天した。かの地図の拡大コピーが掲示されている……! 知らないところでこんなに活用されるなんて。なんだか、親元を離れた子を眺めているようだった。
 『太宰地図』もおかげ様で2610月、弘前大学附属図書館のリニューアルオープンに合わせ、二刷を発行した。まなびの家で無料配布中なので、さわやかな太宰をぜひご覧いただきたい。

2015年3月21日土曜日

シュウジにまつわるエトセトラ   世良 啓(文筆家) 


 机の引き出しから、免許証サイズの過去が出てきた。弘前太宰治下宿保存会会員証。入会したのは200026日、会員番号706番。丁寧にラミネートされている。
 会長が小野正文、副会長は獏不二男。保存会はこの年4月に発足したばかり。裏の会則第4条にまじめに「太宰治の弘前における下宿先が国家的にも本県にとっても重要な文化遺産であることを周知広報すること」とあって、笑ってしまう。太宰下宿が『国家的』に重要な文化遺産とは、なんとまあ大きな風呂敷。太宰の弟子だった小野正文先生、ふわりと白髪をゆらし、やせたお身体から甲高い声で、ひょうひょうと挨拶される姿が蘇る。言葉をかみしめかみしめ、独特のとオチで、なんとしてでも聴衆を笑わせる。一回のお話で最低三度は確実に。そういえば恩師、獏先生だって高校の英語の授業中、常に脱線しては生徒を笑わせていた。このお二人、人を笑わせることに全力だった太宰DNAを確かに受け継いでいらした。
 15年経つ会員証には旧制弘高時代の津島修治(太宰)の笑顔が印刷されている。はにかんだ笑顔はあの頃のまま、なのに小野先生も獏先生も、とうに旅立たれてしまった。
木の葉みたいに軽い一枚、黙ってそっとしまい込む。
 保存会発足から5年後、2005年7月27日から弘前を会場に全国高等学校総合文化祭文芸部門が開催された。当時、高校の文芸部顧問だった私は文学展示ブースを担当、苦し紛れにつけたメインテーマが「2人のSYUUJI」。弘前に下宿した津島修治、後の太宰治と、弘前で生まれた寺山修司の学生時代にスポットをあて、全国の高校生たちに、教科書に載る文豪、ではなく、盛んに同人誌作りをしていた頃のシュウジ君たちの姿を同じ文芸仲間目線で見てもらおうじゃないか、という企みだった。
 その頃、二人のシュウジと弘前の関係はまだ意外にレア情報だったようで、全国の文芸部員にむやみに受け、会場の弘前文化センターも大にぎわい。「あなたはどっちのSYUUJI派?」という太宰VS寺山人気投票コーナーは、意見を張り出す場所が足りなくなるほど珍意見がどしどし寄せられ、うれしい悲鳴をあげた。ちなみに2人のシュウジの等身大手作りパネルはいまだに弘前中央高校文芸部の部室にあると聞く。
 こんな展示をしたせいか、あるいはもっと前からなのか、どうも二人のシュウジに因縁がある。寺山修司の生誕地や父の歴史、金木の太宰治疎開の家、三沢の寺山家の墓、三鷹、新宿等々、県内外の二人ゆかりの場所へと運ばれ、ゆかりの方々に遭遇し続けている。
 そうこうしているうちに、もしや太宰と寺山は本当に『国家的文化遺産』かもしれない、とマジメに思うようになってきた。一生反抗期の負けず嫌い、淋しがり屋の平和主義者。人を笑わせ、愛することに命がけ、本気で世界と戦おうとしてたんじゃないか、この二人。しかもペン一本で。体当たり、ナマ傷だらけの作品が、時代を超えてしみてくる。
 さて寺山修司の父、八郎が東奥義塾に通っていた頃、津島修治は旧制弘前高校(現弘前大学)に通っていた。戦前、弘前の町角ですれ違ってたりして、なんて想像するとちょっと楽しい。袖すり合うも他生の縁。案外、私たちのご先祖様だって、どこかで二人と会っているかも、だ。うーむ、どこだろう。やっぱ鍛治町? いや、榎小路かな。

  

2015年2月19日木曜日

ときめきの太宰   田邊 奈津子(弘前ペンクラブ会員) 

 太宰治は今もたくさんのファンを持つという稀有な文豪だ。同じ時代に活躍し、ほとんど顧みられない作家がいることを考えると、太宰は読者に熱愛されている。
 けれども私は長いこと尊敬できなかった。名作が多く、ユーモアとエスプリの効いた『津軽』や『お伽草子』は好き。でも、ひとりの人間として考えたとき、心中事件で一九歳の女性を死なせて自分だけが生き残るなんて、ひどいと思う。さらに、聡明な美知子夫人との間に三人の子がいながら、山崎富栄と玉川上水で入水自殺とは、夫として父親として無責任すぎると、胸の中で怒りを覚えた。
 その気持ちが変わったのが、二年ほど前「太宰治まなびの家」でボランティアガイドを務めたことだった。太宰こと津島修治が旧制の弘前高校で学ぶために下宿した藤田家は、当主が酒造メーカーの経営に携わっていただけあって、実に趣のある建物である。一階の天井の梁はどっしりと太く、大正時代からの時の流れを感じさせ、階段を上って二階の突き当りである修治の部屋は『あずましい』空間だ。窓に映る庭の木々は折々の四季を感じさせるし、机がある場所は明るい陽射しが差し込んで、宙に浮かんでいるような感がなくはない。
 お客様は私の印象に残る方も多かった。「昔、自分の父がここの酒蔵で働いていた。酒蔵は都市計画で跡形もないけれど、子供の頃に何度か訪れたお屋敷が現存していることが、懐かしくてうれしい」と語った八十代の老婦人。あるいは『藤田の葡萄液』は濃紺で甘みが強くて、その味が忘れられないという年配の方。古民家は手入れが必要で大変だけれど、人々の思い出とともに呼吸して、生きているのだろう。
 さて、太宰のことに話を戻そう。館内には高校時代の飾らない笑い顔の写真が展示され、その当時に創刊した同人誌を読むことができる。
 あるとき私はその同人誌のページをめくりながら、高校時代の太宰がとても熱心に創作に励んでいることに驚かされた。二十歳とは思えないしっかりした文体に、一字一句を推敲した跡がうかがえる。内容は実家が大地主であるのに、その生活ぶりを批判するような社会派小説。この書きっぷりでは、勉強そっちのけだっただろう。なにせ、義太夫を習ったり、芸者と遊んだりと、忙しい学生生活だったから。自分でも成績が気がかりだったのか、試験の前に睡眠薬を過剰に飲み、自殺未遂をして、周囲を心配させた。そう、この家は人生初の自殺未遂をした現場であるという。
 そんな彼の写真はあどけない少年のままだ。じっと見つめると、作家として生きるために、何人もの女性の人生を狂わせ、それを肥やしにして、書き続けて、命を燃焼させたのだと、そんなささやきが聞こえた気がした。その縁側から吹く風に頬を撫でられた瞬間から、私は太宰にときめいている。

津軽語版『走れメロス』について   鎌田 紳爾(音楽家) 

 太宰治は、生まれてから10歳までといわれる言語形成期をはるかに超えた21歳までをこの津軽で過ごしました。
 当然のことながら太宰は金木、青森、弘前と、どっぷり津軽弁の世界に暮らしたことになります。
 ですから、太宰の日常会話は津軽弁でしたし、訛りも相当強かったといわれています。
 太宰が同人誌や学生会誌に盛んに小説を書いていた、官立の旧制弘前高等学校時代の作品には、例えば「オシロイをなすりつけた」を「オシロイをなしりつけた」、「イライラした気分」を「エラエラした気分」など、津軽弁そのままの表記が見られます。
 また、独特な文体や句読点の打ち方に他では見られない独創性があるのも、太宰の「母語」としての津軽弁が影響していると考えられます。
 そこで、太宰の作品を反対に津軽弁に翻訳してみることで、太宰の文体や言い回しの秘密があるのではないかと思い立ち翻訳したのが『走れメロス(走っけろメロス)』と『魚服記』でした。
 比較的初期の作品である『魚服記』には、まだ津軽弁の片鱗がみられますが、『走れメロス』では、発音上の片鱗をみることはありませんが、津軽弁に訳して朗読してみると、そこにはやはり津軽弁の、あるいは津軽的用法を感じ取ることができます。
 私はこの二つの朗読を北は札幌、南は高知にいたる十数か所で朗読をしましたが、概ね評価が良かったのは、朗読から立ち上がっていく「津軽人・太宰治」を感じ取ることができたという評を頂いたことは、とても嬉しいことでした。
 そして、それは太宰の文字が、どんな言語に訳されても「太宰治」であるという強靭な文学であるということに他なりません。

太宰に恋して   I(北海道在住)

 昨年の春、北海道から弘前大学に進学した息子の家の近所で偶然「まなびの家」を見つけました。太宰治は名前しか知らなかったのですが「どうぞおはいり下さい」の張り紙に誘われ中に入ると、太宰治が官立弘前高等学校へ通うために下宿していた旧藤田家の住宅だと、解説員さんが丁寧に案内して下さいました。
「私は、この弘前の城下に三年ゐたのである。弘前高等学校の文科に三年ゐたのであるが、その頃、私は大いに義太夫に凝つてゐた。」(『津軽』より)
 日当たりの良い2階の下宿部屋には、愛用した机やたんす、壁には学生服と黒いマントが掛けられ、よく見ると壁に苦手だったという数学の方程式の落書きも残っています。「見栄っ張りでオシャレで三味線が趣味で、芥川龍之介を意識し…」との説明を聞き、そこにあった太宰治の写真に胸がときめきます。長身で面長、大きな目に筋の通った鼻…前髪を垂らしニヒルな微笑み。なんと私は一瞬で太宰治に恋してしまったのです。
「生活。よい仕事をしたあとで一杯のお茶をすする。お茶のあぶくにきれいな私の顔がいくつもいくつもうつっているのさ。どうにかなる。」(『葉』より)。
 自分の顔をきれいだと言い切る太宰治は、やはり格好いいと思います。
 座敷のテーブルには「太宰治作品全集」と原稿用紙、よく削られた鉛筆が置いてあります。適当に1冊手に取り、たまたま開いたページの一節を「私が好きな太宰の一節」という見出しの続きに書き写しました。
「人間が、人間に奉仕するというのは悪い事であろうか。もったいぶって、なかなか笑わぬというのは善い事であろうか」(『桜桃』より)。
 翌月再び訪ねると、解説員さんは私のことを覚えていてくれました。「斜陽館」の写真を見せてくれ、太宰治の故郷である金木町の話をしてくれました。実際に「斜陽館」を見たくなった私は翌日、津軽鉄道「走れメロス号」で金木町を訪ねました。「芦野公園」駅で列車を降り、桜の下で威風堂々と建つマント姿の銅像前で一礼します。彼が通った小学校の前を通って金木町へ向かい「太宰通り」「メロス坂通り」をのんびり散策します。太宰治の実家である津島家の菩提寺「南台寺」、幼少の頃、子守りのタケと訪ねた「雲祥寺」をお参りし「斜陽館」に着きました。重厚な赤レンガ塀にぐるりと囲まれた宅地は面積約860坪という大豪邸でした。最後に「太宰治疎開の家」(旧津島家新座敷)を列車の時間ギリギリまで見学しました。
 帰りの電車で「太宰餅」を頬張りながら色々と考えてみました。常に死を意識し30代で命を絶った太宰治。心中した山崎富栄は遺書に「私ばかり幸せな死にかたをしてすみません」と書き、太宰治は妻に「美知子、誰よりも愛していました」と記しました。彼を愛した女性達は彼を愛したことを後悔してはいないと思うし、太宰治は幸せだったのではと思います。今秋、「まなびの家」の訪問で書いた「一節」。
「子供より親が大事と思いたい。子供よりも、その親の方が弱いのだ」(『桜桃』より)
 これは、父太宰治が子へ宛てた最期のメッセージ(言い訳)のようにも思えました。
 次に弘前を訪ねる時は小説「津軽」をカバンに入れて、太宰治が通った土手町の喫茶「万茶ン」で読むつもりです。そして、また「まなびの家」に行き、太宰治ファンになるきっかけを作ってくれた太宰治にソックリで親切なイケメン解説員さんに会って、お礼を言おうと思うのです。

太宰治と私   柳家小きん(噺家 社団法人 落語協会 真打) 

 太宰治は、私を落第から救ってくれた、作家である。
 私が、初めて、太宰の文学に接したのは、高校生の頃の現国の授業だった。その年の期末試験の折に、「この時の作者(太宰治)の気持ちについて、述べなさい」という、出題があった。私は、太宰の気持ちには、一毛にも触れずに、「思い人を死なせ、自ら命を絶った人の言葉に、今を生き抜く人に伝えるべき、真実があるのか?」と、設問とは反した、自前の生命論を展開した。その解答は、解答用紙の裏面全面にまで及び、挙句の果てに、「人類が必要としているのは、死の誘惑に打ち克ち、生き抜いてきた人の言葉である」「私は、落語で、その魂の叫びを、伝えてゆく」と、結んだのである。
 今、読み返せば、汗顔の至りである。これが、18の歳の私の真情だった。答えになっていない、私の解答は、点数が付くはずがなく、自ら落第の坂を、転げ落ちたようなものだった。
 これに対し、吾が恩師・吉田輝義先生は、「自ら命を絶たざるを得なかった人の、心の叫びをも、受け止められる人になってください」と、赤ペンで書かれて、私に、及第点を遥かに凌ぐ、最高点を、付けてくださったのである。おかげで、私は、落第を免れた。
 余談だが、吉田先生は、母校から転任後、赴任されたすべての学校で、私を呼んでくださった。教諭として赴任された最後の高校では、先生の文学の授業のひとコマを、私に与えてくださり、私に講師を任せてくださった。後日に、先生は、「貴方の、その誠を尽くす、真摯な生き方が、生徒達の心を震わせ、目を輝かせたのです」と、私にエールを送ってくださった。先生から、「文学とは、自らの生き様を通して、問題提起をし、内なる心の声に耳目を傾けさせる行為である」と、教わった気がした。授業を受けたのは、私だったのである。

 私が、弘前へ伺う度に、「津軽人と江戸っ子は、よく似ているな」と、感じる機会が増える。シャイで照れ屋だが、芯の強さを持ち、実はお洒落で新し物好きで、心を通わせた相手には、とことんまで誠を尽くす。津軽の人々が、誰もが胸中の奥底に持つこの美質は、実は、落語に出てくる江戸っ子そのものなのである。だから、古典落語は、津軽人に、愛されるのである。何を隠そう、私の「津軽人=江戸っ子」説の、一番の証人こそ、太宰治である。太宰は、「走れメロス」の最後の一行で、それを見事に、表現している。
 「勇者は、ひどく赤面した」
真の英雄である主人公を、はにかませながら、その劇の幕を降ろす。ここに、私は、津軽人ならではの美質を見、江戸文化の「粋」を、見るのである。
 私が初めて、青森市内で落語口演する際に、主催者の皆様に、口を揃えて、言われたことがある。
 「青森の人は、あまり笑わない」「誰もが知る、著名な師匠が、蹴られた(ウケなかった)」
 「小きんさん、大丈夫ですか?」
私の知名度の低さからくる、実力の未知数さと、過去の噺家の振る舞いからくる、トラウマとの、合わせ一本!の、反応であった。
 私が、弘前へお邪魔するのは、本年11月19日のまなびの家での会で、八回目。足掛け三年余りで、口演の数は、二十数席にも及ぶ。こんなにも、皆様が、私を可愛がってくださる理由は、弘前の人達の我慢強さは勿論だが、やはり、津軽の人と、江戸っ子の私との、「心の有り方の近さ」が、一番の理由であると、私は勝手に思っている。
 弘前初訪問から、来弘の度に開催している、私の独演会を、「ふるさと寄席」と、命名させていただいた。田舎の無い、故郷の無い私の心の故郷が、津軽だからである。太宰も、きっと、東京に住む人の心の中に、津軽をみたに、違いない。

「太宰は好きか?」と問われて   大津 眞也(高松丸亀町弐番外・参番街 運営室 館長) 

 大学生の頃、仏文研究室の先輩から「太宰は好きか?」と訊かれた。即座には好きとも嫌いとも答えられなかった。何故なら、作家太宰治と同じ津軽という気候風土の地に生まれ育った私には、とても繊細で微妙な問いかけだったからだ。いま還暦を迎え、39歳の若さで入水自殺を遂げた太宰治よりも20年以上も長生きしているのに、いまだにこの質問の答えを見つけられずにいる。

 最初に読んだ太宰治作品は中学校の国語の教科書に載った『走れメロス』だ。当時の中学国語教師工藤光男先生の情熱的な授業も今ではとても懐かしく思い出される。「メロスは激怒した」の書き出しで始まる彼のこの短編は、漸く小説を読み始めたばかりの田舎の中学生にはかなり新鮮な驚きだった。高校に入学して間もなく読んだ仏作家アルベール・カミュの『異邦人』の書き出し「今朝、ママンが死んだ」に出会った時、この『走れメロス』の書き出しを思い出した。

 私が入学した高校には、当時3人の太宰治に纏わる先生方がおられた。校長の小田桐孫一先生は芥川賞創設の文藝春秋社の菊池寛(今私はその菊池寛縁の地の高松にいる)に薫陶を受けて、戦後故郷弘前に戻り、教育者になった。教頭の藤田本太郎先生は旧制弘前高校時代の太宰治が下宿していた藤田家(現在の「太宰治まなびの家」)のご子息であり、津島修治に可愛がられた少年だった。もうひとりは授業を受けることはなかったが、太宰治研究家で後に大学教授になった相馬正一先生だ。

 小田桐孫一先生は私たちが最後の卒業生だった縁(私たちの同期会の名称は「孫の会」)もあり、私は帰省の度に何度も撫牛子の先生のご自宅にお邪魔した。一度だけ太宰治のことを尋ねたことがあった。どんな内容だったのかは今ではあまり覚えていないが、遠くに視線を投げて悲しい表情をしていた記憶だけが残っている。きっと先生にとっては、戦前、戦中、戦後の同時代を生きた同じ津軽出身の太宰治は簡単に論ずることができる対象ではなかったに違いない。

 『走れメロス』から始まったせいか、『人間失格』や『斜陽』という作品よりも、私は太宰治の短編小説が好きだ。どれが一番とは言えないが、最近は『葉桜と魔笛』がいいと答えている。女性の語り口で綴られる太宰治の短編小説のなんと魅力的なことか。稀代のストーリーテラーと呼ばれる所以だ。きっと弘前公園の満開の桜もその葉桜も観ているはずだし、ねぷた祭りの笛の音も耳にしているはずだ。だから、私はこの短編小説の舞台は勝手に弘前の街だと思っている。
 

 人間太宰治には女々しいイメージがつきまとう。実際、故郷の長兄に頭の上がらないだらしない男だ。それが女性の語り口を借りると生き生きと甦る。もちろん、人間太宰治と太宰治作品は別物なのだが、イメージばかりが独り歩きしている。ただ『津軽』で見せた太宰治だけは津軽で生まれ育った津島修治に戻った姿だったに違いない。「『津軽』の太宰治は好きか?」と問われたら、私は躊躇なく好きと答えるはずだ。

「太宰治まなびの家」と「弘前ペンクラブ」について   斎藤 三千政(弘前ペンクラブ会長) 

 1「太宰治まなびの家」の指定管理者に
 平成25年3月21日、弘前ペンクラブは弘前市教育委員会教育長と、「弘前市指定管理者による旧藤田家住宅の管理に関する協定書」を締結し、4月1日から「太宰治まなびの家」の管理・運営を開始しました。
 私どもペンクラブ会員にとっては、まったく初めての任務でしたので、戸惑いの毎日でしたが、一年があっという間に過ぎてしまった、というのが正直な気持ちです。2年目の本年は、昨年の業務の点検・反省を踏まえながら、さらなる創意工夫を加えて、任務にあたりたいと思っておりますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。


 2「弘前ペンクラブ」とは
 平成7年11月10日、弘前プラザホテルにて、100名の会員を集めて「会員相互の親睦を深め、表現の自由を守り、地域の文学活動に寄与することを目的」に、弘前ペンクラブ設立総会を開催し、その目的の達成のため、主として講演会、講習会、研究会の開催のほか、各種イベントの実地、また、「弘前ペンクラブニュース」を発行し、会員に文学活動の場を提供してきたところです。

平成17年11月12日には、弘前ペンクラブ創立十周年記念祝賀会を開催し、「弘前ペンクラブニュース」の合本を出版して、10年間の歩みを振り返りました。

 
 3「旧藤田家住宅」について
 太宰治(津島修治)は、昭和2年から5年までの3年間、藤田豊三郎方(当時は弘前市富田新町57)に下宿しました。
 旧藤田家住宅は、大正10年に元碇ヶ関村長の家を移築したと伝えられています。この大正時代から戦前までの時期は、日本住宅史上の一大変革期で、それまでの建物外周の縁側や、次の間などの構成とは異なり、「居間」や「個室」が配置される、いわゆる「中廊下型平面」「居間中心型平面」と称される様式が、定着したといわれています。
 この旧藤田家住宅は、弘前市に現存する大正時代の建物としてはきわめて貴重であり、保存する重要性が高いことから、平成18年3月24日、「太宰治まなびの家」として、弘前市の有形文化財に指定され、4月18日に公開されました。
 

 4貴重な文学遺産を後世へ
 太宰作品は、たとえば、新潮文庫に限っても、平成25年6月現在で、全作品の総売り上げ数が、じつに2100万部を超えています。驚異的な数値というほかありません。国内はもちろんですが、多くの国で翻訳され、国際的にも高い評価を得ている、日本を代表する作家であることは、多くの人が認めるところであります。
 太宰は官立弘前高等学校の3年間を、この「太宰治まなびの家」で過ごし、作家への夢を加速させました。それゆえ「太宰治まなびの家」のもつ文学的意義は、計りしれないものがあると考えられます。すなわち、第一級の文学遺産であるということです。このすぐれた文学遺産を全国に発信し、後世に伝えていくことが、いま、私たちに課せられた使命である、と肝に銘じています。ぜひ、ご来場いただければ、喜びこれに勝るものはございません。
 

2015年2月18日水曜日

   太宰朗読と津軽弁    中村 雅子(「津軽」語りスト) 

  「太宰治まなびの家で、いつか朗読させていただきたいです。」
 私がそう申し上げたのは2013年の春。弘前ペンクラブのSさんのインタビューにお答えすることになり、今後の夢を問われてそうお答えしました。するとSさんが、「あら、まなびの家は今年から弘前ペンクラブが管理することになったのですよ。」……と!
 何か運命的なものを感じたと言ったら大げさでしょうか。
 ほどなく、Sさんから企画書の用紙をいただいた私は、まず、個人ではなく所属している『「津軽」語りスト』として公演の申し込みをしました。県内でこうした活動をしている団体があることを知っていただきたかったことと、代表が弘前在住なので色々連絡が取りやすいことが理由でした。
 そしてその年の8月、メンバー10人余りで最初の公演をすることができました。真夏の公演なので暑さが懸念されましたが、当日は幸いさほどの猛暑ではなく、開け放した戸口からは心地よい風が吹き抜け、お越しいただいた大勢のお客様からもご好評をいただきました。

 年が明けて2014年初夏。太宰治生誕の日である6月19日に、今後は私個人で朗読する機会をいただきました。しかも、前日に行われるシンポジウムの合間にも短い作品を是非、とのお話まで! またとないお話に、今年はやむお得ず語りスト公演を欠席させていただき、弘前へと向かったのです。
 シンポジウムも無事終わり、いよいよ19日の朝。弘前の祖母の家で和服に着替え、いざまなびの家へ……。旧制高校時代の太宰がかつてこの家で暮らしたのだと思うと、家具や棚、柱の1本にさえ特別な思いを抱かずにはいられません。藤田家の家族とともに太宰が写真に納まったまさにその場所で、私は朗読をさせていただきました。

 メインに選んだのは「津軽」の最終章。子守のたけと太宰が小泊で再会する場面は、ことに有名です。たけと、津軽で会った人々のセリフは津軽弁で、あとは標準語で朗読しました。30分を超える朗読でしたが、お客様が真剣に聴き入ってくださる様子は読み手の私にもひしひしと伝わり、部屋の片隅では太宰さんも聴いてくださっているような……そんな不思議な感覚さえありました。
 ラスト近くのたけの「久し振りだなあ。はじめは、わからなかった……」で始める長セリフ、ここを読む時私はいつもたけに感情移入してしまい、涙がこみ上げてきてしまいます。標準語で読むのでは何か空々しくて伝わらず、津軽弁でたっぷり表現してこそ作品の心が伝えられる……。そう気付いたのは、今から5、6年前太宰作品の朗読をライフワークにしようと思い定めた頃でした。
 「雀こ」という、全編津軽弁で書かれた作品がありますが、これを初めて読んだ時、津軽出身の私のような者にしか表現できないのでは? という自惚れにも似た喜びをおぼえたのです。東京の仲間に聴いてもらったところ、「中村さん、標準語の朗読よりずっと生き生きして魅力的! 声もお腹からしっかり出てる」と言われたことも大きかったように思います。
 それ以来、津軽が舞台になっている作品や津軽の人が登場する作品は、一部を津軽弁で表現するという今のスタイルが定着し、それを楽しみに来てくださる方も増えてきました。
 でも、これは関東だから受けるのだろうか、もしかしたら、津軽弁が珍しいからなのかも……。地元でも果たして喜んでいただけるだろうか……。という一抹の不安も実は抱えながら臨んだまなびの家での朗読会でしたが、3作品を読み終えた時のお客様の大きな、そして温かい拍手に、それは私の杞憂であったことを知り、心から有難く思いました。
 太宰は東京生活が長くなってからも津軽弁がなかなか抜けなかったといいます。彼の作品には、津軽弁独特の言い回しが所々に見られ、やはり彼は紛れもなく津軽人だったのだと改めて感じます。
 であればこそ、朗読者として「津軽の心」を丁寧に表現していきたいですし、私にしかできない太宰朗読というものを目指して、今後も地道に努力していきたいと思います。
 まなびの家で三度朗読させていただける日を夢見ながら……。