2015年12月19日土曜日

古き家への郷愁   長利 冬道(弘前ペンクラブ会員)

 最近、御幸町方面に用事で行く時に、ふらっと「太宰治まなびの家」に立ち寄ることがある。大正時代に建てられた「旧藤田家住宅」の引き戸を開け中に入ると、昔の私の家を思い出すからである。今は写真でしか残っていない家ではあるが、この建物に入ると不思議なことに心が落ち着くのである。私の昔の家にも土間があり、太い柱、太い梁があり、二階に上る簡素な階段があったと記憶している。それ故、まなびの家に入ると、それらが思い出されて郷愁に浸ることができるからだ。
 また、まなびの家で行われる数々の行事にも参加させてもらっている。例えば、朗読会、講演会、落語などである。これらの催し物もまなびの家で行われることにより、魅力を増し引き立つことと思う。
 先日、行われた朗読会の様子を「詩」の形にまとめてみたので、それを読んでいただけたら幸いと思う。

修治の言霊

太宰まなびの家にて
太宰治の小説を朗読
最高のシチュエーションだ
修治が舞い降りてきたように
座敷に「津軽」の言霊が響き渡る
標準語のなかに
時折混じる津軽弁が
心地よく聞こえる
太い梁と障子
大黒柱と襖
高い天井
古い日本間の様式が
趣を高めている
朗読が終わると
惜しみない拍手が
会場に沸きあがる
そして
人が去り
またいつもの静寂が
戻ってきた

2015年11月16日月曜日

私小説という仮面舞踏会   田中 久元(田中屋店主)

 太宰治は恥ずかしい。
  特に文学好きということでもないけれども、ほぼ同郷という縁で太宰作品は一応読んだ。ただあれは青春文学という感をぬぐえない。若さとは恥ずかしさだと思う。居ても立っても居られないようなコンプレックスとそれに抗う自尊心がスパイラル状に絞り上げるような思春期の葛藤なくしては生まれえない作品群ではなかったのか。
「選ばれてあることの恍惚と不安の二つ我にあり」ヴェルレーヌの言葉というより太宰の記念碑に刻まれた言葉として有名である。貧富の差が甚だしかった時代に貴族院議員の名家に生まれ、しかし、自分はそれに値する存在なのか、自分は何者なのだろうという、まさに青春の葛藤をそのまま持ち続けていた人ではなかったのか。 

十八の時、上京して世田谷の予備校の寮に入ったことがあった。そこで名古屋出身で柴田勝家の子孫だというMと友達になった。戦国時代の話で盛り上がったのが切っ掛けだった。
「田中って津軽出身で色白で上品で、太宰治を思い出す」とMに言われて二の句が継げなかったことがあった。色は白いが別段細面でも端正な顔立ちでもない。上品かどうかは意見の分かれるところだが、シャイで引っ込み思案な少年ではあった。比べられて嬉しかったから今でもその言葉を覚えているのだろうけれど、それに近い量の恥ずかしいという感情を持った。
 
六十の声をそろそろ聞くようになってから、同人誌の友人に感化されて、初めて短編小説のようなものを書いた。これまで同人誌に所属しながら実話やエッセイ的な雑文しか書いたことは無かった。
中央の出版物には決して載らない、しかし書き残しておかなければ忘れ去られてしまう人や出来事。いやそれは私にとっては決して些事ではないこと、それを書くのが自分の役割だと思っていた。そして小説は読まない、創作はしないと公言していたので明らかな前言訂正である。
子供が骨折した一日の出来事を、いやそのときの私の心の揺れを書いたので、実際に起こったことを小説仕立てにしただけなのだが、意外なことに筆が進んだ。小さな合評会で友人に「いつもよりのびのび書けてる」と言われた。ちなみにこの原稿は北奥氣圏第十一號に掲載されることになった。
登場人物に仮名を付けて小説という額縁に収める。小説という額縁いやジャンルは大概のものは収まるくらい幅広い。納めてしまえば約束事で、これはフィクションであり絵空事なのだ。仮面舞踏会や覆面座談会のような自由さがあるのに気が付いた。
私小説という日本伝統のジャンルも作家たちはフィクションという約束事に解放された振りをしながら、自分の内奥を眼をそらさずに見つめて来たのではないか。そして太宰治はその系譜の中の最高峰であった。
 太宰治はもうほとんど読まないが、もし今『人間失格』を読んだなら三日寝込む自信はある。 

2015年10月20日火曜日

太宰治こと津島修治様   澤口 淑子(弘前文学学校生徒) 

  私は、久方ぶりで隣町の小学校を訪ねた。ほぼ半世紀前に、長男、次男の学んだ小学校である。当時小学校の校門の脇に二メートル程の石碑が立ち、そこには「素直ないい子」と彫られてあった。
 ある時、石碑について説明があり、太宰治の「人間失格」の最後尾「葉ちゃんは、とても素直で……神様みたいないい子でした」と閉め括られた小説から選んだものだという。
 太宰治の信奉者が寄贈したものだと聞いた。後には、かの石碑について「教育の場に人間失格とか、情死作家の心情を掲げるとは……」と異論が唱えられたと記憶している。「素直ないい子」はどうなっているのだろう。期待と不安が頭をよぎる。
 校舎は新築され、ちんまりとコンクリート造りに変わっていた。広かった校庭は半分に削られ、うっそうとした樹々に覆われた公園になり、町の避難場所と標されていた。
 年月の差を痛感する。正面玄関の大窓には人文字で「えがおであいさつ」「思いやりのある笑顔でやさしい○○小学校の子」と赤文字で大書されている。現実に引き戻された我が身は、太宰さんは何処へ? と一抹の寂しさを抱えて帰宅した。
 人間失格の〝はしがき〟に、問わず語りしている……、十歳前後の写真を醜く笑っていると書き記し、太宰の多くの写真は、この世の責め苦を一人で背負っているかの風貌で、人々の瞼に張りついていると思う。
 今では、津島修治と問われても太宰治と一致しない人が多いと聞く。太宰、だざい、ダザイで通じるのだ。毎日のように、新聞、雑誌のコラム等でお目に掛る。何故こうも人気があるのか? 裕福な家庭に育った修治さんは、感謝を言葉に現したことがあるのか?
 私の手元にある(河出書房)太宰治集に十五編収められ、作品の多さに驚く。
 監修に谷崎潤一郎、武者小路実篤、志賀直哉、川端康成氏の名がある。大作家なる先生方は、太宰か、津島さんいずれを希望の星と認めたのだろうか。批評家でもない、まして人の生き方に口を出すべき我が身ではない。しかし人は全て、成したことに代価を払わなければならぬのも、当然だとおもう。小説を書くということは、人間を書く、命の輝きを書くと弘前文学学校で講義を受けた。太宰の作品は、津島修治の心の泉から湧き出た雫であり宝である。
 津島修治さんへ漱石先生の「それから」の終章を贈りたい。愚図な代助へ兄の一喝……「お前は平生からよく分からない男だった。世の中に分からない人間ほど危険なものはない。何をするんだか――安心ができない。お父さんや俺の社会的地位、お前だって家族の名誉という観念は持っているだろう」
 あくまで作品が大元なのであって、どんな形で姿を現すか作家の文学的手腕だと思う。

2015年8月18日火曜日

偉い小説家   秋元 弦(元中学校教員)

 第二大成小学校は古い鉄筋コンクリート造りの三階建ての建物で、三階に上がると「角は」デパートのアドバルーンがすぐ近くに見える。六年一組の窓からは、桜の大木の梢越しに南西に広がる町並みが見渡せた。
 窓は小さなガラスを鉄の枠にパテで固定するスタイルで、このあいだ掃除の時間に割ったところだけ、白いパテが生乾きで石油のにおいがした。毎日誰かが触るので、パテは指紋だらけになっていた。
 教室の後ろのほうで、いつもはおとなしいチカコが、今日はずいぶん意地になってゴン太と言い争っている。どうせまたゴン太が気を引こうとして、ちょっかいを出したからだろう。チカコの長いお下げ髪を後ろから引っ張ったり、珍しい歯列矯正の装置などをからかって泣かせたりするのは、結局そうなんだ。
 ゴン太は毎日夕食に鶏のもも肉が一本つくと自慢していた。あのパワーと体格はきっとそのせいだ。
「な、ゲン知ってる?」
ゴン太がゲンに話しかけた。
「ツシマって小説家。知らねえよな。チカコの家の二階に下宿してたって」
チカコが一瞬期待するような視線をゲンに向けた。家も近所で事情を知ってそうだし、何でも知ってるようなふりをするゲンなので、なにか援護してくれるかと期待したらしい。しかしそのときゲンは素直に首を横に振った。知らなかったからである。
「ほら、ゲンも知らないって」
チカコは一種がっかりした表情を見せたが、気を取り直して反論を続けた。
「ホントなんだから。ツシマっていうのは本名だけど、違う名前で有名な人なんだから」
「そんな有名な小説家の先生、こした田舎さいるわけねえべ。話つくってるんでね」
ゴン太の説によると小説家っていうのは東京のほうの人がなるものだというのである。
「だからここで学校を卒業して、そのあと東京に行って大学に入って、そして小説家になったんだって。ホントなんだから」
チカコはひるまずに反論を続ける。
「じゃあ、そしたに有名な小説家だばよ、賞とか取ってるんだべ」
「あ、ごっちゃんなら知ってるかも」
ゴン太はごっちゃんを見つけて大きな声で聞いた。
「なんて言ったっけ、ほら小説の賞」
ごっちゃんは自席で眺めていた英語のテキストを閉じて話の輪に加わった。
「芥川賞とか直木賞のこと?」
「あ、それそれ」
ゴン太はチカコの方に向き直って言った。
「なあ、そんな有名な偉い小説家の先生なら、そういう賞とってるのかって」
チカコは困ったような顔をした。
ごっちゃんが口を挟んだ。話の中身はだいたい聞こえていたようだった。
「あの人はたしか貰ってないはず。ホントは芥川賞ほしくて、選考委員の川端康成に手紙を書いたんだけどだめだったはずだよ」
川端康成という名前はゲンも知っていた。ついこのあいだノーベル賞という偉い賞を貰ったとテレビはその話題でもちきりだった。ヨーロッパの何とかという都市での授賞式で、一人羽織袴姿で堂々と振る舞う姿は小学生にも誇らしかった。あのテレビに出ていたやせた白髪の人が選考委員やっていたのか。じゃあツシマって人も昔の人か。
 それにしてもごっちゃんはなんでも知ってる。どうしてそんな大人の作家のことまで知っているんだろう。ゲンはそういうごっちゃんをたいしたものだと思った。だいたい、塾で英語を習っているのは、学校でもごっちゃんくらいだろう。
 ゲンはすっかりごっちゃんの博識に驚いてしまっていたが、ゴン太はチカコに向かい続けた。
「ほら、やっぱり貰ってないんだ」
チカコは繰り返した。
「ほんとに偉い先生なんだから」
チカコは涙目になって続けた。
 「ウチのお父さん、その先生に写真とって貰ったって」
「写真撮るのと小説は関係ない」
ゴン太が言った。
チカコはいよいよ泣きそうになった。
ゴン太が聞いた。
「何っていったっけ、そのツシマさんの何、ペンネームっていうの?」
「ダザイオサム」
小さな声でチカコが言った。
「知らね」
ゴン太が言った。チカコは泣き出した。
 ごっちゃんが知ってるから、有名な小説家だろうに。まあ、ゴン太のねらいはいつもと同じなんだけど。

2015年6月24日水曜日

そして「太宰」はどこにいるのか?   自然 先紀(「飾画」同人) 


 太宰治は実はいまだに苦手な作家なのである。
 どこかつかみどころが無く、得体の知れない深井戸を思わせるのだ。
 出身が青森高校かつ弘前大学な私は、ハタからは大先輩をリスペクトして当然のダブル後輩という目で見られがちだが、実際は教科書掲載作品ぐらいしか読めてはいない。そんな私が弘前ペンクラブの事務局として「太宰治まなびの家」の指定管理に携わることとなり、否応なく太宰と関わらざるを得なくなってしまったのも因果な話である。
 
     *
 閑話休題――
 「メロスの全力を検証」という中学生の研究が話題になったことがある。記述を頼りに時速を割り出したところ、明らかに「走っていない、歩いている」というものだった。
 ここから二つのことが導き出せる。一つは発表から何年経っても読者にとって新鮮であり続けていること。もう一つは時間の概念が希薄であることだ。
 「まなびの家」での朗読イベントなどの時しみじみ感じることだが、太宰と読者の距離感は舞台と観客席のそれではなく、同じ部屋・同じ目線に立った時空の共有という一種の「共犯関係」である。部屋を出てから、びっくりするほど短い時間だったり、思った以上に時間が経っていたりという体験は誰しもあると思う。あの感覚だ。
 「まなびの家」は正式には弘前市指定有形文化財「旧藤田家住宅」(大正時代の「中廊下型平面」住宅様式)であるが、音響の良さはイベントのたびいつも驚かされている。二階六畳間の縁側が下宿当時の太宰のお気に入りであったが、隣の八畳間の藤田家長男・本太郎さんとの「語らい」も正にここで活発に行われていたわけである。
 こじつけなのは百も承知だが、太宰の原点の一つをこの「まなびの家」に訪れた方に具体的な体験を通して感じていただければ、この建物が遺されたことの意味や意義もまた新たに生まれ出てくるのではないだろうか。
 語りによって境界線の取り払われた時空が生み出す「騙し絵」的な太宰との一体感・共犯関係は「まなびの家」で過ごした太宰の青春の日々と相似形を為している。
 
     *
 しかし「距離感」の喪失は一方で太宰の輪郭をも不分明なものにしてしまうのだ。
 読者の多くは作品を通して古井戸の水面に映った自分自身の姿を見出してしまう。私の本能がアラームを発するのは自分自身と太宰の混在への気持ち悪さに対してだ。
 『畜犬談』において「ポチ」への心情が変化するように、自分が苦手とするものへの価値観も時空の共有によって時に気まぐれにその立場は入れ替わる。
 
「(略)芸術家は、もともと弱い者の味方だったはずなんだ(略)芸術家にとって、これが出発で、また最高の目的なんだ。こんな単純なこと、僕は忘れていた。僕だけじゃない。みんなが、忘れているんだ」(『畜犬談伊馬鵜平君に与える』より)
 
 実は犬(強者)自体への恐れや嫌悪は温存されていて、変化したのは具体的な「個体」への反応だけなのだが不思議に説得力を持つ。その一方で思いつきの綺麗事を並べたてているだけなのを「家内」の薄い反応を対比することで見透かしてもいるのだ。
 こうした「読み」の中に自分自身の資質まで発見してしまうと、「私」のことはどうでも良いから「太宰」はどこにいってしまったのだという不安がもやもやと広がってしまう。
 太宰治は実はいまだに苦手な作家なのである。

2015年5月18日月曜日

太宰と私   梶野 稔(劇団民藝 俳優) 

  劇団民藝に入団する前に円・演劇研究所に入所し演劇を勉強したのだが、そこでは様々なテキストで演じる勉強をした。
 W・シェークスピア、テネシー・ウィリアムズなどは勿論だが、「三びきのやぎのがらがらどん」という絵本のテキストを4人で演じるというのもあったり多彩だったが、そのテキストの中に「走れメロス」の抜粋があった。
 「メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。」から始まる。
 演劇は戯曲の台詞、ト書きを役者が演じ、舞台美術、照明、音響効果などで劇場空間を作るもので、舞台を活字で表す事は不可能なのだが、この冒頭のシーンを演じたように文字にしてみると…。
 「(舞台奥センターに立ち、大きな声で)メロスはーーーーーーー!!(両腕を大きく振りながら)ぶるんと両腕を大ーきく振ってーーーーーー!雨中、(前方を指を指し)矢の如く走り出たーーー!(と言って走りだす)」と書いて見たが想像出来ただろうか?
 この後には「そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。」と言った後で歌を歌ってみたり「見よ、前方の川を。」の後は濁流になったり一人で「走れメロス」を体現したエチュードだった。
 その時は毎日朝から晩まで夢中で芝居をやっていたので「太宰が同郷だ」などと感慨深く思う余裕はなかった。しかし改めて今考えると同郷の太宰の文学の助けがあり、僕は演劇を勉強し今も役者を続けていられるのだと有り難く感じてならない。(演じるにあたって、改めて全文を読んだ時、外国人の作家の作品のように感じた想い出があるが、それは私だけだろうか?)
 最近も「走れメロス」に似たものを観た。
 それは昨年(2014年)、ゴスペラーズ坂ツアー2014  ゴスペラーズの『ハモれメロス』”だ。
 男性ボーカルグループのゴスペラーズは「ひとり」で大ヒットしブレイクしたが、その前は様々な試みをしていて、同じ早稲田大卒の演劇関係の人達と歌と芝居を織り交ぜたコンサートをやっていて、昨年11年振りにシアトリカル(演劇的の意)ライブツアーを行った。
 あらすじは、工場で働きながら音楽をやっている二人が、プロバンドの楽器をちょっと借りようと練習場所に忍び込み、盗むが捕まってしまう。被害を受けたバンドマンが警察に通報しようとするのだが、二人のうちの一人が「自分の妹が結婚式を長野で挙げる。行きたいから三日間待ってほしい。友達を人質にする。」と言うがお金が無いからバスに乗らず走り出す、というもの。
 走るシーンはルームランナーを使ったり、芝居の合間に歌があったりとても面白い作品だった。
 実は私も「走れメロス」を少し借用した小説をブログに書いた事がある。

 「小説 満州JIHEN」
 http://minotty.exblog.jp/15943637/

 阿久悠が優れた流行歌の条件の一つに「替え歌になるかどうか」というのがあったと記憶している。
 死後半世紀以上経った今でも、熱心なファンがいるのは優れた作品群があるからだが、「走れメロス」のように親しみを持てて誰でもパロディーを作りたくなる懐の大きさが太宰にあるからだろうと思う。(芥川の「蜘蛛の糸」もよく朗読のテキストに使われているがパロディー化された話は聞いた事がない。)
 太宰ゆかりのお菓子があるのも面白い。
 太宰が「生まれて墨ませんべい」を食べたらどんな感想を言うのだろうか?

  「メくてすみません。」とひどく赤面するに違いない。

2015年4月17日金曜日

「太宰治 弘前青春散歩地図」   船木 統紀子(瑠璃同人) 

 私が初めて太宰治と遭遇したのは、小学生高学年の頃。親に連れられ、金木の斜陽館を見学した。いまいち太宰自身に関心が持てないままだったが、斜陽館近くにある雲祥寺へ入った時、思わず「わぁッ」と声をあげたことを覚えている。太宰の子守り・越野タケが、道徳教育のため彼に見せたという十王曼荼羅、いわゆる地獄絵が展示してあった。地獄の責め苦にあう人間たちと、裁きを下す閻魔様。心惹かれた私は、地獄絵の解説プリントを持ち帰り大事に保存していた。勿論、彼への興味ではなかった。
 しばらく彼との距離は縮まらなかったけれども、高校に上がってから、彼への印象が変わる出来事が。所属していた文芸部の企画で、太宰と寺山修司について壇上で発表することになった。寺山担当と決まった私に、太宰の発表担当者が「発表の内容を考えたいので『津軽』を一緒に読んでほしい」と頼んできた。数日かけ、放課後に代わるがわる音読した。『津軽』の最初あたり、股引を買い求めて土手町を歩きまわる太宰の描写が面白く、二人で笑った。 

 平成23年の11月頃だっただろうか、小野印刷所へ入社して1年以上経ったある日。前々からお世話になっていた弘前大学人文学部・山口徹先生から「太宰の地図を作りたいのです」と相談を受けた。弘前市内で太宰に関連する場所を地図にしたい、学生向けのデザインで、手描きのイラストを入れ、暗いイメージを払拭するため明るくさわやかに、というご指示。確かに太宰は自殺した文豪で、暗いイメージが少なからずまとわりついている。一度ためらう。しかし、私の中の“彼”を見つめなおすと、未だに股引を求めて土手町を歩きまわっていた。
 イラストは私の友人・金澤蘭子さんにお願いし、若々しくて笑顔が魅力的な太宰をたくさん描いてもらった。当初は地図の道路なども手描きになる予定だったが、話し合いの末、イラスト以外は私がパソコンでレイアウトをすることに。山口先生のこだわりもあって、『太宰治 弘前青春散歩地図 ―官立弘高時代の街を歩く―』という素敵な地図ができ上がった。ご好意で地図の左下に名前を入れてもらい、気恥ずかしさと嬉しさでいっぱいになった。 

 私が弘前ペンクラブへ入会した際、会長の斎藤三千政先生に「船木さんは、あの太宰地図を作った方ですか」とお声を掛けていただいた。会長が見てくれていたとは! と喜んだが、なんと更なる衝撃が待ちかまえていた。
 ペンクラブ入会後、太宰治まなびの家を訪れた私は仰天した。かの地図の拡大コピーが掲示されている……! 知らないところでこんなに活用されるなんて。なんだか、親元を離れた子を眺めているようだった。
 『太宰地図』もおかげ様で2610月、弘前大学附属図書館のリニューアルオープンに合わせ、二刷を発行した。まなびの家で無料配布中なので、さわやかな太宰をぜひご覧いただきたい。